平和祈念展示資料館科(総務省委託)
東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル48階
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企画展「漫画でたどる引揚げ展」

企画展「漫画でたどる引揚げ展」

この企画展では、11人のマンガ家が子どもの頃にみた戦争と自身の引揚げを描いた作品を紹介しました。作品は、わが子の手をギュッと握って日本をめざした親の愛情と、はるかなる道のりをたどり帰ることができた生命をたたえていました。
期間:平成29年6月27日(火)~9月24日(日)
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赤塚不二夫<br>「ボクは万里の長城のすぐそばで生まれたんだ」

赤塚不二夫
「ボクは万里の長城のすぐそばで生まれたんだ」

ぼくは、北京市の古北口という万里の長城のすぐそばで生まれた。おやじは、満州と中国の国境を警備する特務警察官で、危険地帯を転々としていた。窓に手榴弾とピストルがおかれていた。「もし、わしがいないときに敵に襲われたら、これでまず子どもを殺し、それからお前も死ね」といっておやじがかあちゃんに渡したものだ。かあちゃんもまた死を覚悟して生きていたのである。

赤塚不二夫<br>「ボクは万里の長城のすぐそばで生まれたんだ」
バロン吉元 「夕陽とあじあ号」

バロン吉元 「夕陽とあじあ号」

父が満鉄の関連会社で働いていたこともあり、汽車が好きで、機関車をみると家に帰らないといいはっていた。とりわけ、「あじあ号」に憧れた。引揚体験について、父や母に聞いたことはほとんどない。わりと裕福だった満州生活と、昼夜働き詰めの日本生活には違いがあり過ぎたのだ。私自身、中学3年生の頃まで引揚げのことを引きずっており、死を考えたこともあった。

バロン吉元 「夕陽とあじあ号」
山内ジョージ 「マントウが食べたかった」

山内ジョージ 「マントウが食べたかった」

私は、今でも後悔していることがある。私が小さいとき、中国の子どもたちは実にうまそうにマントウを食べていた。とにかく、私はあのマントウが食べたかった!!本当にうらやましかったのだ。中国に住んでいた大部分の日本人は、日本人社会の中だけ生活していた。そんなことから母は、買うことを許さなかったのだろう。これが私と中国の距離だったのかもしれない。

山内ジョージ 「マントウが食べたかった」
高井研一郎<br>「うちの前の映画館ではたびたび爆弾テロがあった」 

高井研一郎
「うちの前の映画館ではたびたび爆弾テロがあった」 

上海で本屋をしていたうちの向かいには、映画館があった。映画はこのころ大きな楽しみだった。日本映画を見にくる日本兵をねらって、座席にしかけられた爆弾がたびたび爆発した。でも爆発がおさまると、「いい映画をやっている」からと私もおふくろと映画を見に行く。爆弾の恐ろしさよりも、映画のほうが面白かったからである。

高井研一郎<br>「うちの前の映画館ではたびたび爆弾テロがあった」 
森田拳次 「8月15日をさかいに」

森田拳次 「8月15日をさかいに」

玉音放送を聞いたおばさんたちは泣き、男たちは拳を握り嗚咽した。終戦の日に敵の大将マッカーサーが、パラシュートでひとり満州に降りてくるという噂を信じていた。ぼくは、家族と大人のために、一人でマッカーサーをパチンコでやっつけに塀の大門に向かった。気の弱い泣き虫の少年が、一人犠牲になって立ち向かおうという気になるほど、あの日は異常な一日だった。

森田拳次 「8月15日をさかいに」
北見けんいち 「父はシベリアへ」

北見けんいち 「父はシベリアへ」

お父ちゃんは、昭和20(1945)年8月10日に兵隊へ取られて、15日にシベリアへ抑留された。東京の実家に帰ってきたのは、ぼくが小学校4年生になった25年だ。たった5日間の兵隊で、5年もシベリアに送られたわけだ。それでも抑留中は、パン焼き工場の仕事に回されて、食べ物の現場にいたので生きながらえることができた。

北見けんいち 「父はシベリアへ」
山内ジョージ 「母は工場で働くが...」

山内ジョージ 「母は工場で働くが...」

父は、戦後シベリアに抑留され、モスクワ近くの収容所で亡くなった。春を待たず、病で死んでしまったのだ。父がいなくなり、4人の子どもを抱えた母は、ロシア人の漁網工場で働いた。仕事が終わり帰るときには、品物を持ちだしていないか、大人だけでなく、子どもまでも検査された。

山内ジョージ 「母は工場で働くが...」
ちばてつや 「社宅を脱出して転々とした」

ちばてつや 「社宅を脱出して転々とした」

終戦となり、日本人はひとかたまりになって社宅から夜逃げした。集団からとり残され困っていた一家6人を、父の同僚だった徐集川(じょしゅうせん)さんが、屋根うらにかくまってくれた。お腹が空いた退屈だと泣きわめく弟たちに絵を描いてやると、目をキラキラさせて物語の続きを楽しみにしてくれた。漫画と物語を描くエネルギーの素は、徐さんにかくまわれた屋根うらで生まれたのだ。

ちばてつや 「社宅を脱出して転々とした」
赤塚不二夫<br>「でっかいリュックを背負ってかあちゃんにしっかりとつかまって」

赤塚不二夫
「でっかいリュックを背負ってかあちゃんにしっかりとつかまって」

かあちゃんを先頭に、ぼく、須満子と背中の綾子、宣洋の順につかまって歩いた。かあちゃんが絶叫する。「しっかりつかまるんだよ、離しちゃダメだよ!」手を離したら残留孤児となる。実家についた綾子はフゥーっと息を引き取った。どんなことがあっても子どもたちと日本にたどりつかなければ、という必死な思いを叶えた綾子は、本当にかあちゃん思いの親孝行な妹だった。

赤塚不二夫<br>「でっかいリュックを背負ってかあちゃんにしっかりとつかまって」
ちばてつや 「引揚船は大きくてたくましく見えた」

ちばてつや 「引揚船は大きくてたくましく見えた」

葫蘆島で引揚船の順番をまっていると、日本人や中国人から、子どもと食べ物を交換しないかと持ちかけられた。そうして中国残留孤児になる人もいた。私の母は、「うちの4人の子どもは全部違う。性格もなにも全部違う。だけど全部私の子どもだから、絶対に離さない」と言ってがんばっていた。母の気迫をみた私は、「ああ、いい母親で助かったな」と。いつまでも忘れられない。

ちばてつや 「引揚船は大きくてたくましく見えた」
山口太一 「揺れる引揚船の底で」

山口太一 「揺れる引揚船の底で」

昭和21(1946)年12月に山口一家は、大連からの引揚船に乗ることができた。初日の夜、真っ白な白米のご飯が出た。山口少年は、船酔いした大人たちの分までたいらげた。食べても食べてもお腹に入った。祖母は、「いい加減にしなさい、お腹が破れちゃうよ」と言うのだった。船に乗るまでご飯もろくに食べられなかったことをとりかえすような思いで、食べまくった。

山口太一 「揺れる引揚船の底で」
横山孝雄 「LST乗組員からの手紙」

横山孝雄 「LST乗組員からの手紙」

私の家族は、引揚船として使われたLST※に乗ることができ、日本へ向かった。黄海が荒れて海水が船首から漏れてきたために、2日もあればいける海路が一週間もかかった。長い船旅に退屈した子どもたちは、やさしくカッコ好い船員さんにまとわりついて遊んでもらった。故郷にたどりつき船員さんにファンレターを出したら、ちゃんと返事が来た。今は私の"お宝"だ。
※landing ship tankというアメリカの軍艦。

横山孝雄 「LST乗組員からの手紙」
北見けんいち<br>「おふくろにリンゴを食べさせたい一心でかなりフライングをして...」

北見けんいち
「おふくろにリンゴを食べさせたい一心でかなりフライングをして...」

葫蘆島で運動会があった。かけっこで一着になるとリンゴを三個もらえるので、フライングして一番になった。ところが、勢いあまってゴール先の便所へずぶずぶ入っちゃって、汚くて臭かった...。引揚げで、おやじもいないのに2人子どもをかかえて、おふくろは死ぬ思いをした。だからリンゴを食べさせてあげたいと思って必死に頑張ったんだ。リンゴの味までは覚えていない。

北見けんいち<br>「おふくろにリンゴを食べさせたい一心でかなりフライングをして...」
北見けんいち 「引揚船上から見た日本は本当に美しかった」

北見けんいち 「引揚船上から見た日本は本当に美しかった」

引揚船は、日本の港にたどりついた。けれども、検疫があるのですぐには上陸できなかった。美しい陸地をながめては、早く船から降りたいと思った。はじめて日本を見たとき、満州であんまり木のないところをずっと走ったせいか、「日本って緑緑しているな」という印象をもった。引揚船上で死んだ人を海へ流す水葬を見た記憶もある。緑のなかにも悲しみはまざりあっていた。

北見けんいち 「引揚船上から見た日本は本当に美しかった」
林静一 「母に抱かれて」

林静一 「母に抱かれて」

昭和20(1945)年3月に遼寧省営口で生まれた林少年は、21年に母子2人で引き揚げた。父は病死し、姉も亡くなっていた。この作品は、わが子をギュッと抱きしめて日本をめざした母の愛情と、はるかなる道のりをたどり帰ることができた生命をたたえている。同時に、帰れなかった家族のみならず、日本にたどりつけずに亡くなった母子への哀悼の想いをささげている。

林静一 「母に抱かれて」
森田拳次 「中国の父」

森田拳次 「中国の父」

引揚中、もし親とはぐれていたら私はどうなっていただろう。残留孤児は、つらい生活を強いられた。しかし、やさしい中国人に助けられた話も少なくない。もし日本と中国が逆の立場だったらどうだろう。中国の大地に育まれた大らかさが残留孤児を救ってくれたのだろう。救いの手をさしのべる中国のおじさんと、親にはぐれた日本の兄弟、月に映ったウサギを描いたものである。

森田拳次 「中国の父」
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