平和祈念展示資料館科(総務省委託)
東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル48階
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企画展「手紙が語る戦争」

企画展「手紙が語る戦争」

この企画展では、未公開の資料を中心に、戦争という時代と、その中を生きた人々の状況を映し出す数々の手紙を紹介しました。
期間:平成29年1月24日(火)~4月23日(日)
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漫画家斎藤邦雄氏が妹に宛てた軍事郵便葉書

漫画家斎藤邦雄氏が妹に宛てた軍事郵便葉書 
斎藤邦雄氏提供

中国戦線に従軍中の斎藤邦雄氏が、日本にいた妹の久子氏に宛てた軍事郵便葉書。邦雄氏は昭和16(1941)年に陸軍から召集を受けるまでは、日比谷の東宝劇場で美術担当を務めるなど、当時から絵の才能を発揮していた。一連の葉書には、前線の様子をよく捉えたスケッチが描かれており、淡々とした文章で故郷を懐かしむ様子が記されている。

漫画家斎藤邦雄氏が妹に宛てた軍事郵便葉書
海軍予備士官が家族に日米開戦間近と知らせる書簡

海軍予備士官が家族に日米開戦間近と知らせる書簡 
尾上薫氏提供

昭和16(1941)年11月末に、海軍予備士官の山元誠氏が家族に宛てた書簡。山本氏は神戸高等商船学校の卒業生で、日米関係の悪化に伴って召集された※。封筒には日米が開戦する5日前の消印が押されており、文面にも「愈々日米開戦の日近し」と書かれている。
※ 高等商船学校の生徒は、卒業と同時に海軍予備少尉に任用され、有事の際に予備士官として召集された。

海軍予備士官が家族に日米開戦間近と知らせる書簡
兄嫁と幼い姪や甥が出征中の叔父に宛てた書簡

兄嫁と幼い姪や甥が出征中の叔父に宛てた書簡 
小原福重氏提供

昭和17(1942)年2月、小原福重氏に兄嫁の禎子氏と幼い姪や甥が送った書簡。文面には、戦争による物資統制と配給が、一層厳しくなっている様子が記されている。同封された幼い姪や甥の手紙からは、まだあまり字が書けないものの、叔父である福重氏をしたって、懸命に書いた様子が伝わってくる。

兄嫁と幼い姪や甥が出征中の叔父に宛てた書簡
戦艦武蔵の乗組員が転出した戦友に宛てた書簡

戦艦武蔵の乗組員が転出した戦友に宛てた書簡 
笠原安雄氏提供

昭和18(1943)年10月に戦艦武蔵の乗組員の足立寿作氏が、元乗組員で館山海軍砲術学校に入校した笠原安雄氏に宛てた、激励の書簡。封筒には「軍艦武蔵」と書かれている。武蔵は17年8月に完成した世界最大の戦艦で、海軍部内でも存在自体が最高機密とされ、艦名も伏せられていた。この封筒は、本来であれば機密上問題となるはずだが、なぜか検閲を通っている。

戦艦武蔵の乗組員が転出した戦友に宛てた書簡
満蒙開拓団員の女性が日本の家族に宛てた書簡

満蒙開拓団員の女性が日本の家族に宛てた書簡 
月館千賀子氏提供

昭和20(1945)年6月、「大陸の花嫁」として満州へ渡った田口満子氏が、姪の月館千賀子氏に宛てた書簡。新生活に心を躍らせている様子が書かれているが、田口氏の幸せな生活は長くは続かなかった。終戦の直前に召集された夫とは生き別れとなり、ソ連侵攻後は生まれたばかりの赤ん坊と避難生活を送らねばならず、最後は21年5月に母子ともチフスで亡くなってしまった。

満蒙開拓団員の女性が日本の家族に宛てた書簡
終戦の前日に満州の夫へ送った書簡

終戦の前日に満州の夫へ送った書簡 長﨑智次氏提供

昭和20(1945)年8月14日、三重県津市に住んでいた長﨑京子氏が、満州に出征していた夫の晴一氏へ送った書簡。しかし、同時期の満州はソ連軍の侵攻で大混乱となっていた上、翌15日に終戦を迎え、日本と満州の行き来ができなくなっていた。そのため、大阪中央郵便局外国郵便課から配達不能で返送されてしまったことが、封筒に押されたスタンプから確認できる。

終戦の前日に満州の夫へ送った書簡
復員した元海軍士官にかつての戦友から届いた葉書

復員した元海軍士官にかつての戦友から届いた葉書 
田中孝雄氏提供

終戦後、復員した元海軍士官の田中孝雄氏に届いた葉書。田中氏は戦争中、通信科暗号長として駆逐艦夕風に乗り組んでいた。葉書は、かつての戦友から届いたもので、戦後に特別輸送艦(引揚船)となった夕風に引き続き乗り組むことになったことが書かれている。
※ 夕風は大正時代に建造された古い型の駆逐艦。戦後の賠償のためイギリスに引き渡された。

復員した元海軍士官にかつての戦友から届いた葉書
引揚者に保険の取扱いについて知らせた通知

引揚者に保険の取扱いについて知らせた通知 
中島俊三氏提供

昭和22(1947)年10月、朝鮮からの引揚者であった中島貞雄氏が、郵便年金簡易保険の解約について問い合わせた際に、熊本逓信局から送られてきた通知。中島氏は引揚げ時にほとんどの財産を失ったため、貯金や保険の解約を申し出たが、GHQが日本国内のインフレを抑えるため、貯金や保険の解約、海外からの資金の持ち込みなどを制限したことから、申出は却下されてしまった。

引揚者に保険の取扱いについて知らせた通知
朝鮮北部の収容所で亡くなった抑留者の最期を伝える書簡

朝鮮北部の収容所で亡くなった抑留者の最期を伝える書簡

朝鮮北部の古茂山で亡くなった抑留者の最期を問い合わせた遺族に、当時療養所の所長を務めた元軍医が返した書簡。遺族に対し、多くの収容所で抑留者の遺骨や遺髪、死亡者名簿などが没収された上に、患者の数も膨大であったため、一人一人の抑留者の最期は分からないが、おそらく栄養失調で亡くなったのではないかと回答している。

朝鮮北部の収容所で亡くなった抑留者の最期を伝える書簡
抑留者の解雇を留守家族に伝えた通知

抑留者の解雇を留守家族に伝えた通知 坂寄靖之氏提供

昭和26(1951)年9月に出された、当時抑留されていた文挾啓佑氏の解雇通知。文挾氏は戦前から日立製作所に勤めていたが、17年1月に陸軍へ入営して以降、長らく会社から離れていた上、ソ連の軍事裁判で懲役20年の刑を受け、帰国の目処が立たなかった。日立製作所も10年近く文挾氏の帰国を待ち続けたが、最終的に本人不在のままで、解雇通知が父親の元に届けられた。

抑留者の解雇を留守家族に伝えた通知
帰国した抑留者に、行方不明の元満蒙開拓団員の消息を尋ねる往復葉書

帰国した抑留者に、行方不明の元満蒙開拓団員の消息を尋ねる往復葉書 北野和人氏提供

昭和26(1951)年に群馬県民生部世話課から出された、桐生開拓団にいた須藤俊夫氏の消息を尋ねる葉書。本来、満蒙開拓団員は徴集の対象外であり、また、須藤氏は20年当時36歳で、一般的に召集される年齢を過ぎていたが、戦局の悪化から、関東軍に召集された。入隊した独立混成第136旅団は、終戦の約2週間前に編成を終えたばかりの、急ごしらえの部隊であった。

帰国した抑留者に、行方不明の元満蒙開拓団員の消息を尋ねる往復葉書
「軍神」西住戦車長の遺族が従軍カメラマン小柳次一氏に宛てた書簡

「軍神」西住戦車長の遺族が従軍カメラマン小柳次一氏に宛てた書簡 小柳次一氏提供

昭和40(1965)年に、日中戦争で戦死した西住小次郎中尉(死後に大尉)の兄の小太郎氏が、従軍カメラマンの小柳次一氏に宛てた書簡。小柳氏は当時、自身が撮影した写真を遺族に配る活動をしており、書簡は写真を受け取ったことに対するお礼状である。13年5月に戦死した西住中尉は、軍によって軍歌や戦時国策映画をはじめ、様々な戦意高揚の材料に利用された。

「軍神」西住戦車長の遺族が従軍カメラマン小柳次一氏に宛てた書簡
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