平和祈念展示資料館科(総務省委託)
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企画展「絵と詩で綴る引揚げ -七十五日の旅記録-」

企画展「絵と詩で綴る引揚げ -七十五日の旅記録-」

この企画展では、満州からの引揚者である岩田ツジ江さんが、絵と詩で綴った「満洲さよなら」と「おもいでのきろく」を紹介しました。作品には、女性ならではの視点で、ハルビンでの生活や、日本の敗戦とソ連軍の侵攻で動揺する人々の姿、75日間にわたるハルビンから佐世保への引揚げの様子が綴られていました。
会期:平成28年9月27日(火)~29年1月22日(日)
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ハルビン風景(1) 松花江沿岸で洗濯する婦人<br>

ハルビン風景(1) 松花江沿岸で洗濯する婦人
 岩田ツジ江氏提供

松花江は、海かと間違うほどの大きな川で、大きな中州ができていて、夏には海水浴場となり、大いに賑わいました。水が温む春先ともなると、朝鮮の女性の一団が、籠にいっぱいの洗濯物を担いできて、浅瀬に並んで威勢よくパン・パン・パン・パンきぬたで叩きながら楽しそうに洗濯をする姿が見られました。行き交う人々も立ち止まって、カメラに収めている人もありました。

ハルビン風景(1) 松花江沿岸で洗濯する婦人<br>
昭和20年8月3~4日頃 空襲警報の発令

昭和20年8月3~4日頃 空襲警報の発令 岩田ツジ江氏提供

突然夜中に、「ピカッ!!ドガーン」と光って窓から家中を照らしました。びっくりして外に出てみると、夜空を灯すような美しい型の光が溶けるように、ゆらり、ゆらり、と落ちました。不安な一夜が明けると、ハルビン駅の倉庫と、ハルビン飛行場に爆弾が投下されたとわかりました。いよいよ、ソビエト軍から攻撃される日が近くなった。―と、不安な日々となりました。

昭和20年8月3~4日頃 空襲警報の発令
昭和20年9月頃 ソ連軍占領、鍵をこわして家屋内に侵入した

昭和20年9月頃 ソ連軍占領、鍵をこわして家屋内に侵入した 岩田ツジ江氏提供

「サムライ イエッシ(日本人の男はいるか)」と大声で呼びながら、鍵を壊してソ連兵が泥靴のままで家に上がって来ました。「ニエート(いない)」と手を振って言うと、ますます近づいて来ました。私たちは子供を中にして囲み窓際にへばりつきました。すると「ト・ケ・イ」と言って左手を出しました。私の腕時計を出すと、「オー、ハラショ(よろしい)」と出て行きました。

昭和20年9月頃 ソ連軍占領、鍵をこわして家屋内に侵入した
昭和20年11月頃 街頭でソ連兵につかまったが、耳が聞こえないまねをして助かった

昭和20年11月頃 街頭でソ連兵につかまったが、耳が聞こえないまねをして助かった 岩田ツジ江氏提供

ソ連兵がいきなり右腕を掴み、「イジィシュダ(一緒に来い)」と言いました。また一人ソ連兵が来て左腕を掴みました。このままでは、連れて行かれそうです......力では叶わない。そこで私はいろは歌を口ずさむことを始めました。身動きもせず、ソ連兵に答えもせずに、尚もいろは歌を唱え続けました。すると「フヨウズ(ばかもの)」と、言って、手を離してソ連兵が行きました。

昭和20年11月頃 街頭でソ連兵につかまったが、耳が聞こえないまねをして助かった
昭和20年11月頃 ハルビンの裏街で日本の衣類・持物が売買され生活した

昭和20年11月頃 ハルビンの裏街で日本の衣類・持物が売買され生活した 岩田ツジ江氏提供

おばさんが、「和服を売りに行くと、ロシアの女性が高値で買ってくれる売買(マイタイ)市場があるよ」と教えてくれました。和服を持って立っていると、ロシア兵、ロシア婦人、中国の婦人が着物をさわってみてはいろいろと値をつけます。仕付けのかかった和服を売り、「お母さん、ごめんなさい。ありがとう」と、道々感謝しながら帰りました。帰国も準備できました。

昭和20年11月頃 ハルビンの裏街で日本の衣類・持物が売買され生活した
昭和21年7月27日~31日の間 ハルビン駅構内のフラット車の下で出発を待つ

昭和21年7月27日~31日の間 ハルビン駅構内のフラット車の下で出発を待つ 岩田ツジ江氏提供

リュックを枕にして、車両下の野宿の第一日目です。「明日からが大変じゃね。何時に起きたらいいかね。」と腕をみました・・・・・・。「あれは、没収されて...、時間がわからんよね。」と、言って、姉と大笑いしました。「あれが(汽車)陸つづきなら日本へ帰るのにも、線路を沿うて歩いて帰れるのに・・・・・・。」と、言ったりして・・・いつか眠ってしまいました。

昭和21年7月27日~31日の間 ハルビン駅構内のフラット車の下で出発を待つ
昭和21年8月3日頃 吉林駅への路線切断のため麓から13時間かかり登頂

昭和21年8月3日頃 吉林駅への路線切断のため麓から13時間かかり登頂 岩田ツジ江氏提供

無蓋車で二十分位も行くと列車は止まり、下車してあの山の頂上まで登ると、吉林の駅があると聞きました。それは大変でした。皆大きな荷物を背負っているのですから、なかなか進めません。途中には、ござ、やかん、毛布等が捨ててありました。雄大な山の中腹で持ち合わせの昼食を、かじりながら......、日のあるうちに何としても到着しなくては、と皆で励まし合って登りました。

昭和21年8月3日頃 吉林駅への路線切断のため麓から13時間かかり登頂
昭和21年8月4日夕刻 吉林収容所に到着。ござ・毛布等で囲いを作り野宿

昭和21年8月4日夕刻 吉林収容所に到着。ござ・毛布等で囲いを作り野宿 岩田ツジ江氏提供

ようやく頂上に到着すると、日はもうとっぷりと暮れ、駅らしい建物がありました。宿地に着くと、適当な場所を見つけてござを敷き、シーツで囲むと野宿の用意ができました。ここで一ヶ月余りも野宿をしたので、用意した食料を分け合って食べたり、故郷のこと等も話したり、お友達となって楽しい野宿ができました。「引揚げの七十五日の旅記録 絵本の我は少女でありぬ ツジ江」

昭和21年8月4日夕刻 吉林収容所に到着。ござ・毛布等で囲いを作り野宿
引揚げ船の中で「幼児二人を駅のベンチに置き去りにした」と語る母親

引揚げ船の中で「幼児二人を駅のベンチに置き去りにした」と語る母親 岩田ツジ江氏提供

ころ島で米軍の船に乗り移りました。これで日本に帰れるの。と心から安心して寝ころび、両親や兄弟のことを考えていると、一人の母親が泣き泣き話していました。「子どもに菓子を与えて、ここに座っていなさい。用事をしたら、お母さんが迎えに来るから」と、置き去りにした事を悔んで話していました。皆、何ともいえない、ことばに、涙いっぱいで聞くのが精一ぱいでした。

引揚げ船の中で「幼児二人を駅のベンチに置き去りにした」と語る母親
引揚げ船上で親睦慰安会に大活躍する平和ラッパさん夫妻

引揚げ船上で親睦慰安会に大活躍する平和ラッパさん夫妻 岩田ツジ江氏提供

死を乗り越えた疲れをねぎらおうと、満州慰問帰りだった芸人の初代平和ラッパ夫妻が親睦慰安会を催してくれた。「三味線が私の宝なんですよ。ご一緒できたお礼に私たち夫婦で拙い芸をおめにかけます」と言って三味線をひきながら、ラッパさんの歌に合わせて、奥さんが身軽に次々と踊りを見せて下さり、船員さんも飛び入りで舟唄を歌って下さり、全員が満足した一日でした。

引揚げ船上で親睦慰安会に大活躍する平和ラッパさん夫妻
佐世保港への上陸を前にDDTで消毒をうける引揚げの人たち

佐世保港への上陸を前にDDTで消毒をうける引揚げの人たち 岩田ツジ江氏提供

佐世保の港に入りました。でも、今日は上陸はできません。身体消毒・予防接種・検診等々あり、二日間は船の中でした。検査を済ませ三日めに上陸すると、「消毒します。」と言って、衿首を開くと、DDTの白い粉を思いきり吹き入れられ、腰や腹がざらざらしました。

佐世保港への上陸を前にDDTで消毒をうける引揚げの人たち
昭和21年10月14日 生家に帰ると、陰膳で待ってくれていたことを知った

昭和21年10月14日 生家に帰ると、陰膳で待ってくれていたことを知った 岩田ツジ江氏提供

両親は「よかった、よかった」と、手を取り合って声になりませんでした。家には、私達の写真に毎朝清水を供えて、無事を祈ってくれていました。両親があればこそ......言い尽くせない両親の情が身にしみてきました。七十五日の旅、二度とできない立派な人生の経験として、残り少ない人生を大切に生きるように考えたことでした。書いている中に、場面が次々と見えてきます。

昭和21年10月14日 生家に帰ると、陰膳で待ってくれていたことを知った
『ハルピン→佐世保 引揚75日の記録』

『ハルピン→佐世保 引揚75日の記録』 岩田ツジ江氏提供

岩田ツジ江さんは、平成17(2005)年に『ハルピン→佐世保 引揚75日の記録』(私家版)を発行しました。発行のきっかけは、岩田ツジ江さんの作画が収録された『生きて祖国へ』を見た読者から、絵画に説明文を書き添えて欲しいという要望を受けたためでした。この本には「満洲さよなら」の全絵画が収録されており、絵画と文章によって引揚体験が綴られています。

『ハルピン→佐世保 引揚75日の記録』
満州派遣記念アルバム「北満ハルビン鉄道三連隊一中隊」<br>

満州派遣記念アルバム「北満ハルビン鉄道三連隊一中隊」
 加藤ふみ子氏提供

昭和9(1934)年頃のハルビン駅の写真。岩田ツジ江さんの『ハルピン→佐世保 引揚75日の記録』の表紙には、ハルビン駅が描かれている。

満州派遣記念アルバム「北満ハルビン鉄道三連隊一中隊」<br>
引揚げの途中に行方不明となった女の子のワンピース<br>

引揚げの途中に行方不明となった女の子のワンピース
 村上ひさの氏提供

母親が配給品の綿布で作り、牡丹江省温春から吉林省吉林まで娘が着用していたもの。昭和21(1946)年、吉林市の収容所から、ワンピースの持ち主であった2歳3カ月の女の子が、突然行方不明になった。女の子の母親は、いつか会えることを信じての持ち物を大切に持ち続けていた。昭和60(1985)年、第9次中国残留孤児肉親捜しで、母と娘は39年ぶりに再会を果した。

引揚げの途中に行方不明となった女の子のワンピース<br>
水筒

水筒 井上洋子氏提供

昭和21(1946)年10月、母子が、黒竜江省のハルビンから長崎県の佐世保まで引き揚げる際に使った水筒。引揚げの途中、子どもに与える食べ物は何一つなかった。そのため、3歳の娘が水を欲しいといった時、母親はこの水筒で娘に水を飲ませることで命をつないだという。水筒について母親は、「はるばる満州の地からいっしょに帰って来たのですよ」と娘に語ったという。

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